インド旅行の思い出
[バラナシへ]
[サルナートで]
[ネパール・ カトマンドゥ着]

 ミクシィの日記に書いた、インド旅行の思い出をまとめてみました。
漫画家時代の、まだぜんぜんスピリチュアルじゃない時の話なので、本当にフツーの旅行記です。しかも、デジカメが存在していない時代なので、ほとんど写真もアップできません(^^;)。
それでも、いろいろな気づきと成長につながった体験でした。当時は、すでにバシャールやプレアデスの本は読んでいましたから、帰国してから、スピリチュアルになる前のニューエイジ系の情報をまとめる流れにもなっていました。
 写真を見てみたいという方は、勉強会などでぜひどうぞ☆(ご希望があれば、インドパーティーを企画したいと思ってます)

[インドに出発](2006.12.4)
毎年、この時期になるとインド・ネパール旅行のことを思い出す。せっかくの体験なので、文字に残しておこうと思った。
1997年の11月末〜12月に、連載のあい間に出かけたので、インド行きにしては短い14日間 だったけど(しかも、前後2日は飛行機の移動で終わったけど:笑)。
乾季とはいえ、11月末から12月の旅行だったので、昼夜の気温の差がすごかった。
 そもそも、インドに行くことになったのは、インド好きが高じてインド人と結婚された漫画家の流水凛子さんが、子供の顔を見せにダンナさんの実家に里帰りするというので、アシスタントの先輩と出かけて合流しようという話が来たからだった。
知り合いでもいなければ、まだアトピー肌だった自分が、インドなんて絶対ムリだと思っていた。
 消毒薬と塗り薬をしっかり持って、あとトイレットペーパーは日本製じゃないと水に溶けないと言われ、2個持って行く。
トランク(キャリーカート)だと、ゴロを転がせる道がないというので、スポーツバッグで、帰国したら捨ててもいい古い靴で、新宿住友ビルで予防注射も打ったし、「地球の歩き方」も読んで、準備万端。
 先輩が、一度インドに行っているので、勝手がわかって助かった。
 インドの旅行のランクは、だいたい3段階という。
・1日¥1000-以下のバックパッカーが一ヶ月以上滞在する旅、・1日¥1000〜3000-の中流旅行、・¥5000〜数万円代のマハラジャツアー旅行…などなど。
 初日のニューデリーのホテルは、日本で予約をした。 そうしないと、初心者がインドで宿を探すのは大変なのだった。
 初っぱなから、ベッドが湿っているし。
「暑いから、サービスかなぁ」とかジョークを言って、先輩のススメでシーツを買いに繁華街へ出かけた。 旅行中はベッドに敷いて使い、帰国したら、ソファカバーとして使うのだそうだ。お昼はインドのマクドナルドへ。
 インドの街は、甘い良い香りがする。
意外だったが、街中がお香の香りだった。ウシも犬もヤギも歩いているが、街はバニラっぽい良い香り♪
 道を歩くと、タクシー代わりの乗り物が「乗って行け」とうるさいので、考えて反対車線の歩道を歩く。
 インド旅行でのいちばんの収穫は、二週間、毎日毎日一日中「ノー」と言い続ける練習ができたことだ。
弱気で内気な人でも、帰国すると一ヶ月は強気になれる。ヘタな自己啓発セミナーより凄いかも。

「ノーサンキュー」では通用しないので、同じ意味の「ナヒーン・ヘイ」という言葉を使う。絵ハガキを売りに集まって来る少年たちに、毎日言いまくっていた。
なにしろ、一枚でも買ったら「もっと買ってくれ」。一人から買えば「僕のも、私のも」となり、今日買っても明日はまた「買ってくれ」という無限地獄(笑)。遠慮して大人しくしていれば褒められる、日本の優等生では生きて行けない。
 日本から南京錠を持っていって、部屋には必ず自前のカギをかけるのだそうだ。外での荷物は、絶対持ち歩く。もしちょっとでも目を離したら「どうぞ持って行ってね」と言ってることになるからだ。
 タクシーは乗る前に行き先と金額を交渉するのだが、やり取りするとき数字をメモしておくと証拠が残る。証拠がないと何を言われても不利なので、ガイドのいない旅行は気を使う。
日本人的な感覚は要らない、というか通用しない。
 旅行の良さは、異文化の新たな価値観と出会えることだと思う。
海外旅行では言葉も通じにくいので、生き延びるために全力を使うことになるのも、醍醐味だ。そういう意味で「自分探し(才能の発見)」もできる。
 途上国(と呼ばれる国)では、お金があっても物が無く、工夫を強いられる。もっとも、自分が子供だった頃は、100円ショップも携帯電話もない時代だから、身近な物を工夫して道具を作るのは当たり前。
病弱な自分でも、以外とサバイバルに強いことがわかった(笑)。

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[バラナシへ]
 インドの乗り物は、時間どおりには動かないことがけっこうある。
凛子さんの列車も途中で止まって、トランクを持って線路を歩いたそうだし、飛行機も飛ばない便があった。
 2日目、なんとかバラナシの空港に着いたけど、そこからガンジス川のほとりのホテルに行くまでが大変だった。
タクシーは、まず自分達が連れて行きたい宿に案内しようとするから、それを断ってこちらの行き先を告げることになる。
頼んだことをしてもらうのに(こちらがお金を払うのに)、いちいち説得(交渉)がいる。それに時間を費やすのだ。察する文化でサービス過剰な日本人の(しかも短気な)私には拷問のようだった(笑)。
 相手は必ず「そのホテルはもうクローズドだ」というのだ。電話してみても、宿の事情でホントに電話を止められていたり、番号もしょっちゅう変わるらしいから、場合によっては騙されてしまう。
 凛子さんとの約束がなければ、くじけそうになるくらいだ(´□ `;)。
躊躇していると、どんどんピラニアのように客引きが集まってくるから、速断即決の能力が必要になる。
煽られるように人の波を避けて、冷静な判断を下す余裕も与えられない状態でだったが、今回はちょうど方向が合うバスに乗ることができた(らしい)。
 降りてからも戦い。 バス停から目的地まで、まだ相当距離がある。リクシャー(だったかな)という自転車で送ってもらおうと交渉したが、乗車場では、誰の車に乗るのか乗せるのかでもめていた。 
 方向を告げても「そこは判らないから行けない」、友達が待っているからと言っているのに「そこはヒンズー教徒しか入れない」とか、言葉が正確に伝わらないのをいいことに、うるさいうるさいo(><)o!
当時、気の弱かった自分は何度も根負けしそうになったが、最後は先輩にまかせて気を張って歩いた。
 頼んだらほぼ間違いなくそこに連れて行ってもらえる日本とは、全く違う。
そういう意味では…行きたい所を聞き出して(または一緒に探し出して)サポートする、という今の職業(カウンセリング)は、相当大きなお世話的サービスと思われそうだ…。
 野生の世界では、自分で歩けなくなったらそこで死ぬのだから、「いわゆる途上国」の旅というのは、生きる原点の発見とも言える。弱肉強食というのか…過保護に育った私には必要な体験だった。
 2日目からは、凛子さん夫妻とバラナシ(ベナレス)に滞在。
デリーで買ったパンジャビドレスを着て出歩く。
 ガンジス川のほとり、ダシャーシュワメートガートの近くのホテルには、サル除けのネットが張ってあった。
5階建ての5階に泊まる。もちろんエレベーターはないので、毎日がダイエット生活。
 窓際の部屋は明るくて良いのだが、私と先輩が泊まった部屋の側は隣にヒンズー教のヴィシュワナート寺院、その隣には仏教の寺院が眼下に見えた。
どっちの寺院の音なんだか(たぶん両方)、毎晩お祈りでドンチャンドンチャンドンチャンドンチャン∞大騒ぎ!一晩中お祭りのような音がして、眠れないo(><)o。
反対側の部屋に泊まった凛子さん夫婦の方には聞こえないらしく、熟睡できたそうだ。
 ちなみに部屋は三つ並んでいて、真ん中の部屋はヨーロッパ人が泊まっていた。窓がないので昼間でも真っ暗、よくテラスにテーブルを出して書き物をしている姿を見た。窓がないと真っ暗というのは、ほぼ毎日停電になるからだ。
 明るいテラス、洗濯物が干してあって、テーブルにイス…まるで南国の映画のようなステキな風景なのだが… 実情は、停電。 
朝起きると停電で、建物が暗い。といっても宿泊部屋以外はテラスや階段の空間だから外と通じていて、昼間は太陽光線で何とかフロントまでの階段を降りる。
 停電すると湯沸かし器が点火しないらしく、それまで湧かし溜めたお湯だけでシャワーを浴びる。さすがに現地の人とは違って、水シャワーには冷たくて入れず。濡れる場所では、デリーで買ったサンダルを履いた。 実際はシャワーというより、大きめのバケツにお湯を汲んでおいて、手桶で水と混ぜて身体にかける。まるで被災者の節水生活みたいだが、頭を使って工夫するので、味わい深い。
お湯がふんだんに使える日本の生活は、天国だ。
 停電で、1階の食堂はロウソクの明かり。
いつも、一番安いチャパティ(うすいホットケーキのようなパン)とダル(豆)スープを注文。
ナマモノは食べないように言われていたので、果物は皮付きのままバナナをもらって自分で剥いて食べる。

 私は辛いものが苦手で、ナンが大好き&マンゴーも大好きだから、インドに行ったら本家の「ナン食べ放題&マンゴーラッシー飲み放題」かと思ったのだが…甘かった!ナンもマンゴーラッシーも高級品なので庶民の生活では売っていなかったのだ!(゜□ ゜;)
宿の向いの店で1回だけマンゴーラッシーを買ったけど、それで売り切れ。仕入れがないので一度しか飲めなかった。 ナンは初日のニューデリーのホテルの夕食で食べただけ(-_-;)。日本にいた方が、何でも食べられるのだということを学んだ。
 食と栄養の面でいうと、インド旅行にはビタミン剤が要るということがわかった。
泊まった宿ではみんな菜食主義で、肉は1つも出なかったのだ。 原地人と違って、野菜を分解してビタミンB群を作れる腸内細菌のいない日本人は、ほぼビタミンB1不足になる。口内炎が出来始め、あわてて肉を出してくれるレストランを探す。
 宿に滞在中の日本人チバさんが、「あっちのホテルのレストランでは肉を扱っているよ」と教えてくれて、チキンカレーを食べることができた。その後、先輩と「ネパールに行ったら中華レストランがあるはずだから、そこで豚肉(ビタミンB1)を食べよう」と相談。
 飲み水はペットボトルを毎日買っていた。 
インドの水道水は飲めなくもないのだが、硬水だということでなるべく口にしないのが普通だ。もちろん、普通は下痢をする。当時の私は、横になっている時間が短いと便秘しやすかったので、毎日イスの生活のインドでは下痢とは無縁の数日間を過ごしていた…。

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[サルナートで]
 旅行者だから働かないわけで、毎日観光か買物の生活…。
一般のツアーなら、4〜5日でスケジュールもぎっしりなはずが、10日も予定なし。
のんびりしに来たわけじゃないけど、お金もないので(笑)、とにかく毎日洗濯をしては先輩とガンジス川のほとりを探検。屍体の焼却場を見学したり、ヤギの写真を撮ったりしていた。
 だいたい、インド旅行というのは1〜3ヶ月滞在して全国を巡るのが普通なんだそうだ。二週間と言ったら「そんなに短くて大丈夫なのか?」と言われた。
 折しも、エジプトのハトホル神殿でテロ事件があった後だったので、渡航ガイドでは「危険地帯」に入っていたけど、「エジプトと違ってインドのテロは爆弾だから、死ぬ時は一発だろう」という話になって、出かけることになったのだ。
 街には、軍人さんが駐在していて、宿の屋上にも、小銃を持った兵隊さんが待機していた。猿も登って来るので、みんなでボーッと屋上の景色を眺めたりして…。意外と普段は平和だった。
 せっかくだから、サールナートに遺跡を見学に行くことにする。マンガの資料にと写真を撮りまくった。
漫画家という職業がら、ヒンズー教や仏教に多少の情報は得ていたけれど(オウム事件もあった後だし)、その時は全然スピリチュアルじゃなかったから、当時はたんなる観光客でしかなかった。
ただ、もともと自分は遺跡に触ると「波動」を感じてビジョンが見えることがあったので、それがスピリチュアルな能力(サイコメトリ−)だったらしい。
 サールナートの「鹿野苑」というおみやげ屋さんに立ち寄る。おかみさんは日本人で、お土産を買っていろいろおしゃべりして、似顔絵を描いてあげることに。旅先では、よく似顔絵を描いて話題を作っていた。
お昼休みに自宅に招かれ、インドの一般の(裕福な)お宅を拝見する。
 息子さんの名前はシッダールタ君で、和名にすると「悟くん」。あの釈迦仏陀にあやかってつける人が多く、シッダールタ君は全土にたくさんいるらしい。キリスト教徒が、イエス・キリストにあやかってジョシュアと付けるような感じか。
 3階建てで、広くて映画のような感じで、食堂は2つ、昼寝用の真四角のベッドがあって、面白かった。もっと写真を撮らせてもらえばよかったな…。
 昼食を食べたら、とりあえず横になったりくつろぐというのは、暑い国には必要な習慣だけれど、昔の日本だってそれくらいのゆとりはあったなと思う。戦後、経済復興のために働き詰めでウサギ小屋のような団地に詰め込まれたのは、まだ100年も歴史がない。でも、若い人はそれが日本人の暮らしだと思い込まされているかも(笑)。
私たちも庭で昼寝をするように勧められたが、バラナシに帰る時間が〜(こっちは、夜出歩けないんだってば…)。
 行きも帰りも、オートバイにベンチがついたような乗り物に乗ったのだが、ちゃんと道を覚えてないと、どこに連れていかれるかわからないわけで、そういう気の張り方が必要な旅だった。
 インドに来たからにはサリーを買わねば♪と、土産用のポリエステルのサリーや綿のサリーは(布だけ)買ったけど、シルクのものはまだだった。
ということで、サリーのお店を紹介してもらって、注文することに。シルクのサリーは2〜3万円する。5〜6メートルの布を採寸して、上に着るブラウスから作ってもらった☆
 その時、シルクのスカーフとかも買って、カバンの中がパンパン。最後は(サリー5枚、スカーフ8枚、インドのシーツが3枚、他にお土産のTシャツ4枚、パンジャビドレス2着の)「布長者」になって帰ることになった…('-') 。
 実は、当時インド柄はあんまり趣味ではなかったので、スカーフはほとんどお土産で人にあげてしまった。(インドパーティーをやる時に、一部お見せしますね)
 インドのガンガー(ガンジス川)といえば、「朝日の参拝」。早朝暗いうちに起きて、岸辺で日の出を待った。
12月の朝は寒く、露店のお茶屋さんでチャイ(紅茶)を飲む。
 北の「チャイ」はショウガ入りの甘いホットミルクティーのことだ。私はジンジャー好きなので、美味しかった♪
よく日本のエスニック料理屋で「チャイ」というと、マサラティーが出るのだが、北インドで飲んだチャイとは味が違う。(ちなみに、ミルクティーに生姜湯の粉を入れるとチャイになるので、帰国してから家でもよく作って飲んだりする)
その日は雲が出てしまい、赤い日の出は見られなかったが…河イルカが跳ねる姿を目撃した。先輩が朝日の写真を撮ったら、流れて来た牛の屍骸が写っていたそうだ。
 ガンジス川の水に浸かると死んだ後天国に行ける、とかいう話を聞いたので、右手の先だけ水につけてみた。
悪いことして死んだあと右手だけ天国にいたら、それはそれで恐いかもしれない(笑)…ってゆーか、「アダムズファミリー」のハンド君とか「手っちゃん」とか、ギャグだろう\(-。-)
 先輩が「今回はネパールまで行ってみたい」と言っていたので、2人だけで2日間だけ行くことになった。凛子さんの旦那さん(インド人)にチケット購入をお願いする。
 「何が起きるかわからないから、空港には早めに」とガイドブックにも書いてあったので、タクシーを呼んでもらって2時間以上前に空港に向かう。(ちなみに、空港やホテルで呼んでもらうなり、インドの知人に呼んでもらったタクシーは、けっこう安心して乗れるのだ)
で、タクシーはちゃんと空港まで運んでくれたのだが…「途中で空港で働く知り合いを乗せていいか?空港にはちゃんと間に合うから」と言われ、断る余裕もなく前の席に次々と3人の「友人」が乗り込んで来た。
 1台に6人…いや(本当はもっと乗れたと思うけど)問題なのは、人数よりも乗り方だ。さすがに後部座席はお客さんだから空けてあったが、前に4人というのが…面白すぎ! 彼らは、スライスされたかまぼこみたいに、斜になって乗っていた。
しかも、よく見るとほとんどの車にはサイドミラーがない!
 空港でも、やはりハプニング。午後の飛行機はお休みするので、明日まで出ないと言われた!
ちょっとインド馴れしてきていたので、係の人に「それは困る」と訴えて、本当は午前中に出るはずたったが、今出発直前のネパール(カトマンドゥ)行きの飛行機の手続きをしてもらうことに。
 猛スピードでパスポートチェック、係の人にバッグを抱えて走ってもらい、間に合った。
「旅(トラベル)」の語源は「トラブル」から来ているというが、そのとおりだなと思う。

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[ネパール・カトマンドゥ着]
 なんとか無事にカトマンドゥへ。
「マウント富士」(だったかな?)というトレッキング用のホテルに泊まった。
チバ氏に「ネパールでは、この時期は寒いので南側の部屋に泊まるんだよ」と言われたが、言葉が通じないので上手く交渉できず。
北側はとにかく寒い。バルコニー側のドアからは外からの隙間風が入って来て、室内はほぼ外気温。考えてみたら、ベッドはあるけど暖房がないので、ホントは寝袋で寝るらしい(笑)。
 とにかく豚肉を食べよう!ということで外に出ると、乾季なのに雨。カサを忘れたので、登山用具の店でポンチョを買った。登山用なので、リュックの上からかぶれる大形でしっかりした作りなので、全然濡れないから助かった。
 中華料理の店を紹介してもらって、豚肉チャーハンを食べる。メニューに「猪」と書いてあるのが、豚肉なんだそうだ。 やった〜ビタミンB1だ♪というわけで、一晩寝たら、 口内炎は翌日には小さくなった。
 一安心で観光へ。といっても、ほとんど歩いていける距離だけ、先輩がお土産を探していたので、買物メインで。途中、王宮の写真やクマリの館の写真を撮ったりした。
 マンダラのイラストがたくさん売っていたが、2500円くらい。インドで1000円以上は高く感じるし、その頃はぜんぜんスピリチュアルじゃなかったので、買わなかった。
曼陀羅は、3Dがいい。2000年代にはコンピュータグラフィックで作れるらしいが、本来の3D画面だと、確かに意味がよく解る。
 インドでの買物の仕方を先輩から教わった。必ず1日目は見るだけにして、2日目以降に買うのだそうだ。でないと一見さんはフッかけられてしまう。 シーツを買う時も、サリーを買う時も、座ってのんびりお茶(チャイ)を飲みながら気に入ったものを選んでいった。
 インドや新興国での買い物は「戦い」だ。
インドでは、物の値段は一つづつ違う。日本のショップだと、同じ棚にかけてある服は、一律1980円だったりするけど、インドで一枚の服の値段を聞いて、隣の柄を選ぼうとすると、値段が違うので困惑した。日本の合理的サービスはすごいなと思った。
そういえば、何かの本で「中東の商人は、お客様が気に入った品物は、必要なものとして買ってもらえるから、高くする。お客が『これが欲しい』というと、最初より高い金額を言われる」というのを読んだことがあった。
 「郷にいっては郷に従え」なので、気に入ったものは値段を聞いてメモしておいた。それなら、後から別な金額を言われることもない。この作戦は、タクシー代の交渉を含め、旅行中どこでも役にたった。
人間、追い込まれると知恵が働くようになる。サバイバルこそ「自分探しの旅」だなと思う。
  値段の交渉とか体験して、商売というのはこういうものか…といろいろ勉強になった。大抵おつりが来ないので、高額なお札は持ち歩けないし(笑)。 
タイでも一度お札を渡してしまうと、おつりは戻って来なかった。金額分の品物を次々渡されるのだ。
 たとえば、日本の神社仏閣ではお守りを買うとおつりをくれるけど、タイのお寺では渡した額はそのままお布施になってしまうから、日本人ってなんかすごい律儀だと思う。
 露店でキーホルダーとかを売っていた店員さんが、「目のマーク」で有名なスワャンブナート寺院を「猿お寺」(猿でも有名)と呼んでいて、笑った。
合気道の先生へのお土産に、その怪しい目のイラストTシャツを買ってしまった。先生ゴメンナサイ。
 ネパールでは、他に宝飾屋さんでアメジストのブレスレットやガーネットのリングを、金細工のお爺さんのお店で22Kの飾りを買った。
どちらも今年の出雲に持っていったので、今は神様全部込めてもらってある。 この時買ったパワーストーンが、後に今のスピリチュアルの仕事で役に立つことになるとは…運命って凄い。
 すごいといえば、関西国際空港から来る大阪のおばちゃん達だ。
我々が「ナマステ」と挨拶するそばからネパール人に「お早うございます」を教えていた。しかも「発音が違う」とこまかく教えているが、そのアクセントでは…。
先輩の友達は、「関西人は日本人じゃなくて人種が違う」と言っているらしい(笑)。「ホントは日系関西人」なんだそうだ。
 翌朝、朝食を頼んだらテーブルがテラスに準備されていた。
12月の寒い朝。トーストを待っている間に、入れたてだったチャイがどんどんアイスティーになってゆく〜。
本来なら、映画に出てくるような花が飾られたテラスで、ヒマラヤ山脈を眺めながらのリッチでステキな朝食の風景…だったはずなのだが…。
極寒の中、凍えながら食べた朝食…。実は、冬の朝に部屋が寒いとその時のことを思い出すので、この時期になるとインド旅行の記憶が甦るのだった。
 ネパールは排気ガスがすごい所だし、その当時アトピー肌の自分は1日1回は入浴しないと寝られなかったので、髪を洗うことに。 シャワーもお湯が出ず、寒中の水行状態。髪も乾く前に寝てしまったので風邪をひいてしまった。しかも、風邪でお腹も下してしまった。
 帰りのチケットをチェックするのにいろいろ手間どったり、さんざんな目にも遭ったが、空港の日本人職員の人に頼んで、なんとか無事に戻れて、感謝☆
 ネパールからインドに戻り、最後はデリーで凛子夫妻と合流。
やはり出発の遅れたデリー行きの飛行機からは、真下にヒマラヤ山脈が見えた。富士山の倍以上の高さの山々に、感動の声が上がる。緑の山脈に囲まれて、ひときわ高い白い山の集団が…。ヒマラヤは必ず白、(雪で)絶対白なんだな〜と、あらためて感心してしまった。
機長さんのサービスでもあったが、景色が右の窓側だったので、みんなが一方に集まって写真を撮って、飛行機がかなり傾いていた(笑)。
 デリーでは、凛子さんにくっついて、石屋さんで宝石を買いに。
私は石に興味がなかったので、アメジストの十字架を買った。今はそれをルシ様コンタクト用に使っていて、スピリチュアルになってから役立っている。
凛子さんにインド用の下痢止めをもらって飲む。正露丸では効かないんだそうだ。風邪薬も飲んで、大通りに最後のお土産を買いに行く。
アシスタント先の先生用に、ベビーガネーシャのイラストTシャツも買って帰った。
 いや〜正直言ってインドに行く前は、インドの神様ってマンガチックで趣味じゃなかったんですけど…。
もとキリスト教徒(笑)の自分としては、頭がゾウとか肌がガミラス星人とか、サルの王様とか頭のたくさんある青い悪魔が走るシーンとか…人間離れしたモチーフはちょっと、な〜…とか思っていたのだ。
 でも、現地(インド)に行ったら、国土の雰囲気に良く合っている。あれくらいインパクトがないと、神様もここではやっていけない、ということが理解できた。
 空港では、インドサリー姿のジェニーちゃんを発見。インドのキットカットを食べたら、焦げ臭かった。昔、ソビエトのコーヒーは豆が無くて半分は炒った小麦粉だった…というから、同じ手法でカカオを節約していたのかも。
 まだいろいろエピソードはあるけど、キリがないので報告はこのへんにして…
 風邪でヨレヨレになって、帰国。
家に着いたら、先輩に言われた通り履いて行った靴を捨て、カバンは古いものなので洗わずに捨て、着ていた服と布製品は全部一度洗濯して、当時はお風呂がなかったのでシャワーに入ってから休んだ。
 今度行く時は、ナンも食べれるマハラジャツアーがいいな〜( ←懲りてない)
 そうそう、10年前のインドはトイレもだいたいが手動水洗。つまり置いてある手桶で水を汲んで流す、という形が多かったです。日本製のトイレットペーパーは水に溶けやすいので、節水できました。
 凛子さんの話では、初めてインドに行って感動した人は「悟った」と思いやすいんだそうな。何度も行っていると、それが幻想だったと気づくそうです。
 確かに、あの「カオス」の世界は、自分も神様に許されていることを感じさせますねー。現地で会った日本人の中には、価値観の違いが許せずにぜんぜん感動できなかった人もいたようなので、楽しめただけ幸せかも♪
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